西欧画家の聖画を見る機会があり、少しばかりイエスキリストに関して触れた文面になりましたが、勘弁してお読みください。
人間はいかなる時に一番美しく見えることだろう。
母が子に乳をふくませる姿が一番美しいと言ったひとがいる。
夕暮れの野に静かに祈る女が一番美しい、と書いた作家もいる。
僕は、小学校時代、人けのない廊下に、紙くずを拾う校長の姿を見て、心打たれたことがあった
身を屈めて、人の足を洗うという行為は、たとえその足が誰の足であれ、美しい姿に僕には思われる。
パオロ・ブェロネーゼ「シモン家の饗宴」主の足を拭う女の絵を見た、 キリストが椅子にかけ、そのキリストの足を抱くようにして、女は自分の髪の毛でその足を拭っている。
その町で罪の女であった者が、パリサイ人の家で(イエスが)食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある壺を持って来て、泣きながら、先ず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛で拭い、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
罪ある女とは、おそらく売春行為をした女のことであろう。 この絵のなかに、
人々の、この女とキリストを見つめる表情のなかに、好奇心とも、軽蔑とも、非難ともつかぬものがあるのはそのためだ。
この女は自分の罪を悔い、それ故に泣いてキリストの足を涙で拭った。
しかし、この心低い、美しい行為にも、人は容易に心打たれることがないないものと見える。
だが、その改悛を受け入れているキリストの表情の、
なんと輝かしく清らかなことだろう。
僕はその表情にもまた心打たれたのである。
人間はいかなる罪の可能性をも秘めているという人間理解の深さによるものであろう。
ここに、僕とキリスト・使徒たちの
己自身を知る差であります。
もう一枚「磔刑」
キリストのむち打ちの刑
柱に半裸に後ろ手に縛りつけられる。
これが、むち打ちの刑を受ける時の姿であった。
当時むち打ちと言っても、自由人か奴隷か、いかなる罪を犯したかで、
その度数も、ムチの種類も違っていた。
イエスの場合、棒の先に幾本もの革ひもに金具の輪がつけられてあったらしい。
度数は、胸に13回、肩に26回と決められていた。
これがイエスの十字架につけられる直前のむち打ちの刑であった。
僕はこのイエスの受けた迫害の場面映画で見て、 なぜ、十字架につける人間を、その直前に、39回もムチ打つのか、不思議でならなかった。
屍にむち打つという言葉があるが、
今死んで行く者にむち打ちの刑を課すことは許されない気がした。
僕の心に残っている2つの言葉がある。
それは幼い男の子が、 「その時僕がいたら、悪い奴をやっつけてやったのに」と涙声で叫んだという言葉である。
もうひとつの言葉は、キリストの受難を牧師である息子から聞いた老人が、「キリスト様はえらい難儀なさったやな」と涙したという話である。
人々に愛の限りを尽くした高潔なる人格にさえ、
心打たれないのが、僕たち人間なのだ。
キリストの前にはべてのものは 等しく罪人だ、
僕は、だから人間の大きな深い罪を思う。
レスを拝見して、
ゲイでありながら、ゲイであることに
ことさらに、誹謗中傷し、ホモフォビアとして、自らの尊厳を忌避し自己欺瞞的に間接・直接的に侮蔑する態度は いかがなものかと思う。
僕をふくめて、口を開けば自慢し、他を見下げることを止めない僕たちは、人間性の尊厳も、人格の尊重も知らないのだ。
貧しい者をあざける者は
自分自身を侮ることにほかならない。
もう少し、人間の多種多様を寛容に見せる度量を持っていただきたいと 切に感じます。