▼ストロングカタツムリさん:
俺が読んだ性同一性障害に関する本の著者の中には、佐倉智美さんや虎井まさ衛さんもいましたね。ストロングカタツムリさんに紹介された本も、機会を見て読んでみようと思います。
さて、本題に入りたいのですが、ようやく、問題点が見えてきました。
どこから話を始めればいいのか迷うのですが、まず、
> 先ず始めに、何故私が性同一性障害者であることを述べておかなかったのか。それはここがリベラルな方々の集まる場所ではないからです。
という文章に関する返信から始めたいと思います。あなたは、「リベラルな方々の集まる場所ではないから」と言っていますね。結局のところ、それが、一連の問題に対する解答なのではありませんか?
ちょっと考えてください。学校、職場、近所……どれをとっても、必ずと言っていいほど「リベラルでない人」はいますよね? 本当は、ストロングカタツムリさんも、そのことを知っているのでしょう? 「リベラルでない人」と関わらないようにする方法は、ただ一つ。できる限り生身の人間と接しないようにすることです。そして、あなたはそれを実践している。別に、そのことを責めるつもりはありません。しかし、みんなが「差別されている、いない」ということについて述べるのは、学校や職場や近所といった、現実生活のことなのです。そういった現実生活の中で、差別されていると感じるのです。
あなたの言う「リベラルな方々の集まる場所」というのは、おそらく、勇気さんに言っていたmixiなどのことなのだと思います。俺はまだmixiをやったことはありませんが、別にmixi自体は何も問題ではないと思います。しかし、学校や職場に通わなければならない人は、mixiの中だけで生活するわけにはいかないのです。差別されている大部分の人は、学校に行きたくない、会社に行きたくないと考えています。でも、生活費を稼いだりするためには行かなければならない。そこには、ひどい人たちがいます。あなたの言う「リベラルでない人」や、同性愛者を差別する人たちです。あなたがなぜ、自信を持って、
>私の周りで同性愛嫌悪者がいたことはありません。自分が同性愛者だとカミングアウトしても、そうなんだ、くらいしか反応はありませんよ。それは偶々私が運がよかっただけなんですかね。普通だったら大バッシングを受けているんでしょうか。そこまで卑劣で過酷で惨たらしい社会に生きているんでしょうか。
と言うことができるのか、俺にはわかりませんでした。俺の両親も兄も、小中高の教員も、クラスメートも、大学教授も、バイト先の社長も同僚も、多くの人が同性愛者に偏見を持っていますし、差別しています。残念なことですけど、俺は今、「そこまで卑劣で過酷で惨たらしい社会」で生きています。俺だって、「そこまで卑劣で過酷で惨たらしい社会」で生きるのは嫌です。しかし、下流階級で四人兄弟の上から二番目である俺には、働かないとか学校に行かないという選択肢はありません。やっぱり、バイトもしなくちゃいけないし、大学に通わなければならない。大学を卒業したら、本格的に働かなければならない。そのどこに行ったって、同性愛者を差別している人はいます。
>私の周りで同性愛嫌悪者がいたことはありません。
とあなたが言えるのは、同性愛嫌悪者と関わらないようにしているからです。つまり、「リベラルな方々が集まる場所」ではない場所に近づかないようにしているからです。俺は、そのことを非難するつもりはありません。しかし、自立して生きて行こうと思ったら、どうしたって、そういった「リベラルな方々が集まる場所」ではない場所に行かなければならないのです。すると、そこには同性愛嫌悪者が大勢います。
結局、「生きている場所が違うから」というのが、解答になってしまいますね。しかし、それは仕方のないことだと思います。一人一人、生きている場所は違うというのは、当然のことなのですから。生きている場所が同じ人なんて、この世には一人もいません。あなたがそうやって、居心地のいい場所で生きていることを責めるつもりはありません。しかし、居心地の悪い場所で生きていかなければならない人を非難することは責めざるを得ません。
> これども友達には恵まれている方だと思います。中学の頃の同級生とも仲は良い。あの頃は気味悪がっていた子達も、今では普通に接してくれる。きっとそれは年齢が重ねるに従って、自分とは違う世界も認められるようになってくるからだと思います。とくにセクシュアル・マイノリティに付いては、クラスによい教材があったわけですから、少なくとも私の前では同性愛嫌悪的な言動をとる方はいません。
そして、こんなこと言いたくありませんが、上記の文章は、これまであなたが述べてきた見解とは、微妙に違っていますね。「あの頃は気味悪がっていた」というのは、結局、その子たちは当時偏見を持っていたということなのではありませんか? 本当にこんなこと言いたくないんですけど、「少なくとも私の前では同性愛嫌悪的な言動をとる方はいません」ということは、あなたの見えないところでは同性愛嫌悪的な言動をとっているかもしれないということを、あなたも薄々自覚しているのですよね。
> 友達に連れられてクラブに赴くこともあります。その時には恋人がいるのかどうか問いますが、私は(クラブ以外でも)こう尋ねるようにしています。
>「今恋人はいるの? 彼氏とか彼女とか。あるいは恋愛には興味ない人?」と。すると多くの男性は笑いながらこう返してきます。
>「彼氏はいないよ」と。
> 私はそれにこう答えます。
>「なんで? あなたが同性愛者かもしれないし、両性愛者かもしれないじゃない。もしかしたら無性愛者かもしれない。だからだよ」と。すると皆納得し、こういい改めます。
>「俺はゲイではないから彼氏はいないけど、恋人はいるよ・いないよ」と。
> 女性の場合はもっと多用です。隣りに座った女性に、
>「そう。私達付き合っているんだぁ」と腕を組みながら言う人もいれば、
>「今いないのよ〜、誰も」と言う人もある。女性は同性愛に関して寛容なようで、
>「レズなんかじゃない!」と否定する人は殆どいません。記憶にありません。
これも、この文章だけ読むと、美談ですね。しかし、世界は、あなたの周囲だけで完結しているわけではないのです。
「動くゲイとレズビアンの会(通称アカー)」は、1990年2月に東京都府中市にある「府中青年の家」を、勉強会合宿をするために宿泊利用しました。アカーは、事前に議論を重ねた末、「いつも団体名を無難なものにして利用するのはもういやだ」と、同性愛者の団体だということを明らかにして利用することに決めました。青年の家のリーダー会(その日利用する団体の代表者が集まって、各団体の活動内容をお互いに紹介する)で、「私たちの団体は、同性愛者どうしお互いに助け合いながら、同性愛に関する正確な知識・情報を広め、社会的な差別や偏見をなくすための活動を行っています」と活動内容をきちんと自己紹介したのです。すると、その夜から、アカーのメンバーたちは、他の宿泊利用者から、浴室をのぞきこまれて笑われたり、「こいつらホモなんだよな」「またオカマがいた」などの言葉を食堂や廊下などで浴びせられるなどのいやがらせを受けたのです。
アカーのメンバーは、青年の家側に宿泊者全体での話し合いを要求しましたが、不十分な会しか開かれず、青年の家の所長との話し合いも拒否されたばかりか、事件後改めて申し込んだ5月の宿泊利用まで拒否されてしまいました。
アカーのメンバーは弁護士を通じて、教育委員会に請願したところ、教育委員会は、「青年の家には、健全に使ってもらうために男女別室ルールというものがある。同性愛者が宿泊利用すると、同室に泊まった者同士がセックスをする可能性があるから、同性愛者の宿泊利用は認められない」という結論を出してしまったのです。この結論を認めるわけにはいかないと考えたアカーのメンバーは、信頼出来る弁護士の協力も得て、1991年2月、東京都に対して損害賠償を求めるという形で裁判を起こし、同性愛者の青年の家宿泊利用の是非を問うことにしました。
東京都の言い分は、偏見に満ち、少数者への配慮に全く欠けるものでした。即ち(1)同性愛者を同室に宿泊させると性行為が行われる可能性がある(だから男女別室にしている)(2)他の青少年が性行為を目撃、あるいは想像することにより健全な成長がそこなわれる(3)他の青少年が同性愛者に対して嫌がらせなどをする恐れがある、などです。
アカーは、東京都の言い分に対して裁判でことごとく反論し、第一審に勝訴しました。
しかし、東京都側はこの判決を不服として控訴し、新たに「青年の家に同性愛者がいること自体、他の青少年に悪い影響を与える」などという、同性愛(者)を否定する論理を持ち出して来ました。
もちろん第二審にも勝訴しましたが、裁判が始まってから終わるまで、七年半という長い歳月がかかりました。
こういうことを書くと、あなたはまた、
>ちょっと意固地になっているのかな、と思ってしまうような人は、情報や資料として、同性愛者が差別されていると書かれたページを紹介してきます。ですがそんなことは関係ない。あなたが差別されてきたかどうかななのです。あなたが同性愛者だから差別されてきた過去があるのか、今があるのか。それを仰って頂きたい。
と言うかもしれません。
しかし、よく考えてください。裁判で戦ったアカーのメンバーにとっては、この「府中青年の家裁判」は、まさに「同性愛者だから差別されてきた過去」ですよね。そしてそれは、俺たちの過去であったとしてもおかしくないのです。たまたまその場に居合わさなかった、ただそれだけなのです。